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2017年12月1日 NHKテレビに映りました。

11月6日に池袋の印刷店に自分で作成した本を製本するために行ったところ、

NHK総合テレビ「ドキュメント72時間」という番組の撮影クルーにインタビュー

を受け、それが12月1日のテレビで放映され私が映っていまし。

自分の姿をテレビで見て「随分と老いたものだ」と実感させられ、恥ずかしかったです。

2017年7月30日初孫誕生

40歳過ぎの娘に女の子が生まれ待望の初孫が誕生しました。

名前は、舞音(まい)です。

画像をクリックすると大きくなります。

2017年6月29日 朝日新聞朝刊

私も75歳の「慢性心不全」患者です。

心不全発症(2016年9月18日)

夜中から朝にかけて息苦しくなり、ちょうど家に来ていた長男に車で、近くの病院へ連れて行ってもらい、診断の結果即入院となり、集中治療室に入れられ、その後5日ほどで一般病棟に移った。

10月16日に退院となったが、退院後の家での生活・運動・食事に制限が掛り、2階での生活は階段の上り下りがあるのでダメ、運動は軽い散歩程度、電車での外出もダメ、水は1日1000ml以下、塩分は1日6g以下。3~6ヶ月様子を見て経過が悪ければ心臓バイパスを入れる可能性ありとのこと。病名は「慢性心不全急性憎悪」とのこと。生活が面倒で大変である。

脳梗塞発症(2015年7月11日)

7月11日夜中にトイレへ行こうと思って起きたら、立ち上がれずにしゃがみこんでしまった。これはまずいと思って手元にあったスマホで救急車を呼び、かかりつけ病院である済生会栗橋病院へ入院。幸いにも身体等に麻痺はなく10にほどで退院、退院後体調が悪く大分良くなったものの2016年1月現在も通院中。

2014年10月23日 中越地震から10年

 今日、10月23日は中越地震から10年の日です。
 この中越地震で思い出すのは、この地震により、私が若い時に計画・設計に携わった信濃川妙見堰のすぐ上流で、土砂崩れが発生し、県道を車で走行中の親子3人が土石に埋まってしまい、母親と3歳の女の子が死亡したのであるが、2歳の男の子がレスキュー隊により救出された。
 私は地震の発生した翌日、妙見堰の被災調査に行くことになったが、新幹線も長岡駅手前で脱線してしまったので、臨時に運航した飛行機で新潟に行き、約3週間現地に詰めた。
 このため、この救出劇は堰の橋の上から遠目に見ることになった。

2014年10月8日 皆既月食

2014年3月10日 東京大空襲慰霊

2014年3月10日は東京大空襲から69年、70回忌でした。

この東京大空襲では、私の祖母、叔母とその娘、兄の4名が犠牲となりました。

この日、両国国技館近くにある東京都慰霊堂へ、兄弟、従妹達などと慰霊に行ってきました。

首都圏外郭放水路 2013年12月22日

 昔、私が計画・設計に携わった「首都圏外郭放水路」について、JRの『ジパング倶楽部2014年1月号」に掲載されていました。

画面下右側の四角に右上向き矢印をクリックすると画面が大きくなります。写真は2枚ありますので、写真が大きくなったら左下の小さな2枚の写真で切り替えてください。

 今日、立教セカンド・ステージ大学の入学式に行ってきました。

 この学校は50歳以上の人を対象としたもので、今まで学んだことや経験してきたことをこれまでとは異なった視点から再び学び、とらえ直すことを目的としたものです。カリキュラムは色々あるが、東洋思想、キリスト教の思想、コミュニケーション論、行動科学などを学ぶために仕事の傍ら週3日池袋の立教大学に通学します。今日の入学式は立教大学のチャペルで行われ、讃美歌と校歌を歌い、アーメンを唱えてきました。

2013年3月22日 卒業式

 昨年9月に卒業した慶應義塾大学の卒業式に出席してきました。

 式自体は面白くもなかったけど、卒業式が行われた日吉キャンパスはとても華やかでした。

2013年3月13日 昔のミシン 

 物置に眠っていた昔のミシンを取り出して組み立てました。

このミシンは60年ほど前に母親が内職で使っていたもので、私も内職を手伝ったり、当時流行っていたズボンを細くするために使いました。

2013年1月1日 あけましておめでとうございます。

 本年もよろしくお願い致します。

 今年は年男です。

  2013年1月1日

写真:Google画像より。

2012年11月15日 昇仙峡(山梨)の紅葉

 仕事で甲府へ行ったついでに、昇仙峡の紅葉を見てきました。

2012年10月23日 卒業決定通知

 仕事が非常勤勤務になり、暇つぶしに入学した大学(通信教育)の卒業決定通知が本日届きました。

 レポート作成、試験勉強、卒業論文作成など、結構大変でしたが何とか卒業できました。

2012年9月5日高校野球審判時代

 先日探し物をしていたら懐かしいものが出てきました。

 私が若かり日頃、東京都高等学校野球連盟の審判員をしていたころの新聞記事です。

 当時の審判部長は故・郷司 裕さんで、私の審判の師匠です。郷司さんは甲子園での有名な三沢高校対松山商業の決勝と再試合の主審、早慶戦、都市対抗野球決勝戦等々を行ったアマチュア野球界の名審判でした。

 中央の記事の写真の主審は私です。いずれも朝日新聞の記事です。

 最後の写真は、ハワイ高校選抜と東京高校選抜の試合が昭和40年に東京球場で行われた時のもので、3塁塁審が私、球審が郷司さんです。

 記事をクッリックして大きな画面でみてください。

2012年8月18日 新潟・中田瑞穂記念室

   娘の珠水が新潟へ行った折、私の大叔父の中田瑞穂記念室へ寄ってきました。記念室には生前の多くの遺品や資料が展示してありますが、その資料の一部です。最後の碑には、俳人でもあった大叔父の句「学問の静かに雪の降るは好き」と刻されています。

参考として以下のタイトルかアドレスで検索してみてください。         ・「中田瑞穂記念室」http://neurosurg-bri-niigata.jp/laboratory/nakata_m/index.html

・「瑞穂とみづほ 石井鐐二」http://www.kawasaki-m.ac.jp/mw/reha/essay/090421.html

2012年6月28日 恵林寺庭園拝観

 甲府へ仕事に行った帰りに塩山で途中下車して、国の名勝である恵林寺の庭園を拝観してきました。

 恵林寺は甲府市塩山にあり、乾徳山・恵林寺(けんとくさん えりんじ)と云い、1330年に夢窓国師によって開かれ、武田信玄が菩提寺として定めた臨済宗妙心寺派の古刹である。

 恵林寺は四脚門、三つの門、開山堂を有し、武田不動尊、武田信玄の墓、柳沢吉保の墓などもある。本堂裏側には夢窓国師が造ったといわれる池泉回遊式の国指定名勝庭園があり、禅の風光が表れている。

 

 動画もあります。

2012年5月22ー23日 京都庭園巡り

 京都の庭園を巡ってきました。

 5月22日は京都北東部の詩仙堂→圓光寺→曼殊院→修学院離宮、23日は西南部の桂離宮→苔寺(西芳寺)です。

 雨にも降られず、とても良かったです。坂が多く、いっぱい歩いたので疲れました。

・詩仙堂

 詩仙堂は正しくは「凹凸窠」(おうとつか)といい、でこぼこした土地に建てた住居という意味だそうです。

 江戸初期の石川丈山が1641年(寛永18年)に造営し、隠棲した山荘跡で、曹洞宗となっています。「凹凸窠」には、中国の漢・晋・唐・宋の詩家三十六人の肖像を狩野探幽に描かせ、頭上にそれら各詩人の詩を丈山自ら書いて四方の壁に掲げた「詩仙の間」を中心にしているところから「詩仙堂」と呼ばれている。詩仙の間を中心に、白砂の唐様庭園があり、小川が流れています。

・圓光寺

 圓光寺は臨済宗南禅寺派の寺で、1601年(慶長6年)徳川家康が国内数学の発展を図るために下野足利学校第9代学頭の三要元佶(さんようげんきつ=閑室)禅師を招き、伏見に圓光寺を建立し学校とした。また、孔子家語など多くの書籍を刊行し、当時の木活字が現存している。

 その後圓光寺は相国寺山内に移り、更に1667年(寛文7年)現在の一乗寺小谷町移転された。

 寺内には本尊千手観音像(伝・運慶作)、開山元佶禅師像(重文)、竹林図屏風六曲(応挙作・重文)近世初期制作の木製活字五万個(重文)がある。

 庭園には水琴窟、洛北で最も古い池である栖龍池(せいりゅうち)があり、秋には紅葉の美観が素晴らしいことで有名である。

 また、境内山上には徳川家康を祀った東照宮や墓地内には「花の生涯」のヒロイン村山たか女などの墓がある。

・曼殊院門跡

 曼殊院は、八世紀伝教大師の草創に始まり、比叡山西塔北谷にあって東尾坊(とうびぼう)と称した。その後、天仁年間(1108~9年・平安後期)に学僧・忠尋座主が当院の住持であったとき、東尾坊を改めて曼殊院と称した。

 現在の地に移ったのは、明暦2年(1656年)で、桂宮智仁親王の次男・良尚法親王のときで、親王は造営に苦心し、庭園・建築ともに親王の識見、創意によるところ多く、江戸時代初期の代表的書院建築で、その様式は桂離宮との関連が深い名刹であるとされる。

 国宝・黄不動尊、古今和歌集曼殊院本を所蔵し、虎の間の襖絵は狩野永徳、滝ノ間の障壁画・富士の間の襖絵は狩野探幽の筆と伝えられる。

 庭園は遠州好みの枯山水で、禅的なものと王朝風のものとが融合して、日本的に展開した庭園として定評がある。

・修学院離宮

 修学院離宮は京都市左京区の比叡山麓にある宮内庁所管の離宮であり、1653年(承応2年)~1655年(承応4年)に後水尾上皇の指示で造営され、桂離宮・仙洞御所とならび、王朝文化の美意識の到達点を示すものとなっている。

 修学院離宮は上御茶屋(かみのおちゃや)、中御茶屋(なかのおちゃや)、下御茶屋(しものおちゃや)と呼び習わす3か所の庭園からなり、面積は54万平方メートルに及ぶ。各御茶屋の間には田畑が広がり、細い松並木道が各御茶屋を結んでいる。上御茶屋と下御茶屋は、後水尾上皇(第108代天皇)の指示により、1655年(明暦元年)から1659年(万治2年)にかけて江戸幕府が造営した離宮である。

 上・下御茶屋は1884年(明治17年)宮内省の所管となった。一方、中御茶屋は、同じ頃後水尾上皇の皇女の御所として造営されたもので、1885年(明治18年)に修学院離宮に編入された。修学院離宮は、第二次大戦後は、京都御所、桂離宮などと同様、「皇室用財産」(所有者は国)と位置づけられて、宮内庁が管理している 。

 拝観は3か月前に申し込み抽選による。拝観時は拝観許可書と身分を証明するものの提示が必要で、団体行動で自由行動は許されず、係員二人が付き、一人が説明、もう一人が拝観者の背後につき行動を監視する。1時間半ぐらいで庭園を一周する。

 しかしながら広大で素晴らしい庭園であった。

 

・桂離宮

 桂離宮は京都市西京区桂にあり、約7ヘクタールの離宮で、江戸時代初期の造営当初の庭園と建築物を遺しており、当時の(王朝)文化の粋を今に伝えている。回遊式の庭園は日本庭園の傑作とされる。また、建築物のうち書院は書院造を基調に数寄屋風を採り入れている。

 桂離宮は17世紀に八条宮家(桂宮家)の別荘として造営されたもので、書院、茶屋、回遊式庭園から成る。桂の地は、古くから貴族の別荘地として知られ、平安時代には藤原道長の別荘が営まれていたという。また、この地は風流な観月の名所としても知られ、桂離宮の近くの西京区松室には月読神社があり、桂の地名も中国語の「月桂」の故事から来ているという。

 桂離宮は八条宮家初代の智仁(としひと)親王(1579年~ 1629年)によって基礎が築かれた。智仁親王は初め豊臣秀吉の猶子となったが、秀吉に実子が生まれたため、八条宮家(桂宮家)を創設したものである。本邸は京都御所の北側、今出川通りに面して建設され、現存する。

 桂離宮の書院は「古書院」「中書院」「新御殿」の3つの部分に分かれ、このうち古書院の建設は1615年頃と推定され、書院、茶屋、庭園などの造営は、八条宮家2代の智忠(としただ)親王(1619年~1662年)に引き継がれ、数十年間をかけて整備された。八条宮家は常磐井宮、京極宮、桂宮と名前を変えた後、1881年に断絶し、桂離宮は1883年から宮内省の管轄になった。第二次世界大戦後は、宮内庁が管理している。

 拝観は修学院離宮と同様であるが、修学院離宮よりずっとコンパクトで、修学院離宮が人口造りではあるが自然的であるのに対し、桂離宮は意図的に造形された美と感じた。いずれにしても素晴らしかった。

・苔寺(西芳寺)

 西芳寺(さいほうじ)は、京都市西京区松尾にある臨済宗の寺院で、一般には苔寺の通称で知られる。山号を洪隠山と称し、本尊は阿弥陀如来、開山は行基、中興開山は夢窓疎石である。「古都京都の文化財」として世界遺産に登録されている。

 寺伝では今、西芳寺のある場所は聖徳太子の別荘であったものを、奈良時代の僧・行基が寺にしたもので、当初は「西方寺」と称し、阿弥陀如来を本尊とする法相宗の寺であったという。その後、空海、法然などが入寺したと寺伝には伝える。

 近くにある松尾大社の宮司藤原親秀(ちかひで)は、暦応2年(1339年)、当時の高僧であり作庭の名手でもあった夢窓疎石を招請して、すっかり荒れ果てていたこの寺を禅寺として再興した。もとの寺名「西方寺」は、西方極楽浄土の教主である阿弥陀如来を祀る寺にふさわしい名称であるが、夢窓疎石はこれを「西芳寺」と改めた。「西芳」は「祖師西来」「五葉聯」という、禅宗の初祖達磨に関する句に由来する。

 西芳寺は応仁の乱(1467-1477)で焼失し、江戸時代には2度にわたって洪水にも見舞われて荒廃した。元は枯山水であった荒廃した庭園が苔でおおわれるのは江戸時代末期に入ってからのようである。すぐそばに川が流れる谷間、という地理的要因が大きいとされる。

 拝観は、2か月前に往復はがきによる事前申し込み制で、100人ほどが本堂で拝観前に般若心経を三度唱え、また、般若心経の写経を行いそれを納めてからの自由参観となる。アップル社の創業者であるスティーブ・ジョブズは生前、お忍びで家族とともに西芳寺をよく訪れていたという。

 思ったより本堂も庭園も大きく立派であった。

2012年5月18日・鎌倉

 仕事で鶴見へ行った帰りに鎌倉へ行き、神奈川県立近代美術館の「桂離宮写真展」と「建長寺」を観てきました。

 建長寺は鎌倉五山の第一位、臨済宗建長寺派大本山で、約760年前の建長5年(1253年)に鎌倉幕府五代執権北条時頼が建立したわが国最初の禅寺です。

 建長寺は境内の景色がとてもよく、楽しめましたが、あまりにも広いので全部を観ることはできませんでした。時間と体力が必要です。

 

神奈川県立近代美術館

建長寺

2012年4月21日 名勝・清見寺庭園

 会社の会合で熱海へ行ったついでに、清見寺(静岡県興津)へ行ってきました。

 清見寺は臨済宗の寺院で、寺伝では奈良時代の創建と伝えられています。鎌倉時代に禅寺として復興し、足利尊氏今川義元の帰依を受けて繁栄し、その頃、徳川家康今川氏に人質としてあったが、当寺の住職太原雪斎に師事し、当寺で勉強していたと伝えられている。

 江戸時代には徳川氏の庇護を受けたほか、東海道の目の前にあることから、朝鮮通信使琉球使の接待がここで行われ、朝鮮通信使遺跡として国の史跡に指定されており、また庭園も国の名勝に指定されています。

 清見寺は駿河湾を望む風光明媚な高台にあり、室町時代には雪舟が、明治時代には夏目漱石高山樗牛島崎藤村が訪れているとされています。

 

 なお、階段を登った表門裏の境内には東海道本線が横切っています。

2012年3月22日 偕楽園

 仕事で水戸へ行ったついでに偕楽園へ行ってきました。かなりの人出でしたけど、梅はまだ一寸早く6分咲き程度でした。好文亭からの見晴らしと好文亭室内の襖絵がとても良かったです。

 画面をクリックすると大きくなります。大きくなった画像の右下の矢印をクリッ クするとスライドショーで見られます。

 動画もあります。

2012年3月15・16日 重要伝統的歴史建造物群保存地区・妻籠宿、奈良井宿

 仕事で甲府へ行ったついでに、妻籠宿(長野県木曽郡南木曽町)と奈良井宿(長野県塩尻市)へ行ってきました。両方とも旧中山道の宿場町で重要伝統的歴史建造物群保存地区となっており、約1kmの江戸時代の宿場の様相が修復・復元されています。道路沿いに古い家並が連続的に連なっており、とても良かったです。妻籠は落ち着きと変化があり、特に夜の満天の星空が素晴らしかったです。

 動画もあります。

妻籠宿

奈良井宿

2011年11月 古希を迎える

 011年11月に古希を迎えました。70年は早いもので、大きな可もなく不可もなく、周囲の人に恵まれ、やりたいことを自由にやってきました。両親・女房・神・仏に感謝。

3月11日:東北大震災

 大変な震災が起きてしましました。

テレビでニュースを見るたびに泣けてきます。

犠牲になった方々のご冥福と震災地の少しでも早い復興を祈るばかりです。

 一方、昔、私が20代の末に設計に携わった譜代水門という津波対策水門が機能を発揮し、死者を一人も出さなかったと報道されました。複雑な気持ちです。

 写真と新聞記事はクリックすると大きくなり全画面が表示されます。

 画像はGoogle譜代水門画像より。

2月5日:多摩川・ニケ領宿河原堰

 2月5日に私が昔、計画と設計管理技術者として携わった、多摩川のニケ領宿河原堰が、土木学会2010年度デザイン賞の最優秀賞を受賞し、授賞式に行ってきました。

 この堰は、昔多摩川の洪水で東京狛江市の民家が流されてニュースにもになったときに悪さをした固定堰を、油圧シリンダーで開閉する起伏型の鋼製ゲートと引上げ式の鋼製ゲートに改築したものです。

 従来の堰の形式と河川空間を守り、水の流れに留意した点が評価されました。

 下の写真はクリックすると大きくなります。

 画像は東京建設コンサルタントH.Pより。