昭和1611月の明治節に東京月島にて生を受け、戦時中は310日の東京大空襲で祖母、兄、叔母とその娘を亡くしたが辛うじて生存。戦後の幼少時は焼け跡で貧乏生活。中学・高校時代は受験勉強はもとよりまったく勉強せず野球に没頭して高校野球や少年野球の後楽園でナイターなどを経験、大学時代も高校・大学・社会人野球の審判三昧。阪神・田淵、ヤクルト・大矢の高校時代にその後ろで審判したのが懐かしい。ロッテの手だった高校時代の成田もすごかった。

 結果、就職試験も受けず大学卒業後は紆余曲折を経て建設コンサルタト会社に入社、堰・水門・排水ポンプ場など 河川構造物の計画・設計の仕事に従事、そして結婚。一女一男を授かったが、家庭を顧みずに仕事、仕事。30代で肝炎、50代で慢性膵炎を患い、取締役にはなったものの、お酒も飲めなくなりました。

 59歳に父の介護のため、非常勤顧問となり、71歳で完全退職し、その後は友人の経営する建設コンサルタントにて非常勤で勤め、75歳で退職。

 会社で非常勤勤務となってからは、暇になり、慶應義塾大学の通信教育課程に入学し、2012年に文学部(人間関係学専攻)を卒業、慶應の塾員となりました。その後立教大学のセカンドステージ大学に入学・卒業。現在は「医療市民マイスター協会」というボランティア団体で、患者側と医療側の橋渡し役として、済生会栗橋病院にて活動をしています。

 また、平成27年には脳梗塞、平成28年には白内障の手術、腰椎圧迫骨折、慢性心不全を患いすっかりポンコツ爺さんになり、平成30年には77歳の喜寿を迎えました。

 しかしながら平成29年には良いこともありました。40歳過ぎでやっと結婚した娘に7月30日子供が出来(女の子)ました。初孫です。「事象は全て過ぎ去るものである。怠らずに励め!」の精神で、もう少し頑張ります。

 

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 私が携わった主な仕事の経歴を整理し、まとめてみました。

 当時の苦労が偲ばれます。

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